激変する世界に向けて1200年生き延びてきたKYOTOから生き延びる智慧とヒントを発信

「されど」である。文章の頭に「されど」が来るのは間違っているに違いない。「たかが何々、されど何々」と「たかが」が先にこなければならない。それがなければ「されど」だけでは用はなさない。しかし、どうしても「たかが」と言いたくないのである。「たかが何々」の「何々」に今回入る言葉は、「鉄道模型」である。やっぱり「たかが」じゃないか、という声を何が打ち消すのだろうか。その規模が日本最大級だからだろうか。開店に間に合わすために店長が徹夜続きで創ったという見事なジオラマだからだろうか。店全体が鉄道好きの客を精一杯喜ばせるためにサービスしているせいだろうか。

文字通り視点を変えてみる。線路や列車やそれに見合う昭和の駅舎や町や村を俯瞰することで、一瞬でも創造主である神様の視点を真似る快感がそうさせるのだろうか。もの創りにはうるさい我がスタッフや友人たちと一緒に出かけて、一人ぐらいは、こんな子供じみた玩具なんか、と不愉快な顔をするかと思えば、誰もが「おー」と言って、その後は少年に戻ってしまう。女性もいたから少女にも戻ってしまう。女性にはきっと嫌な顔をされるのだろうと思ったが、想像以上に興奮していた。スタッフを引き連れて打ち合わせに行ったつもりだが、全く打ち合わせなど出来なかった。誰もがただ眺めている。もちろん自分で操縦もできるのだが、ただ眺めている。つい、何を考えているのかと、自分自身の沈黙を忘れて、人の心を探ってみる。私が感じているように、皆も感じているだろう恋心のようなときめきは何だろうと考えてみるが、それもどうでもよくなって、ひたすら走る列車を見ている。

鉄道と言うものが、旅の道具であり、それが遥か昔に少年少女で無くなった大人にも人生の旅を走馬灯のようにイメージさせるのだろうか。老境に入った私には、蒸気機関車、デゴイチ、すなわちD51型蒸気機関車は動輪がABCDのDで四つついた蒸気機関車で、それが走っていた時代だったし、頻繁に乗せてももらった。機械と言えば、コンパクトでスマートに美しく、コンピュータ制御ゆえにその構造への疑問など拒否するのが現代の冷たい機械なのだが、それに対して、蒸気機関車は力強い生き物のように走っていた。その蒸気機関車への郷愁なのだろうか。そして、それがその時代への郷愁に変わるからだろうか。

しかし、とっくに少年の賞味期限の切れた老境の私だけでなく、若い人も恋のようなときめきを感じているとすれば、それが郷愁だとは言い切れない。若い人のときめきはどうしてか尋ねてみたいとも思う。

祇園と言う盛り場のはずれ、骨董や美術を扱う店の並びに、その『ジオラマレストラン 鉄道SLクラブ デゴイチ』はある。この動画は、一緒に連れて行った写真班が、思わずiPhoneで撮ったもので、アングルがいいとこんなにもエキサイティングに写るのか、と何度も見てしまった。そして、何度見てもその恋心に似たときめきの理由は分からないままだし、わからなくてもいいのだ、と思いながら、やはり「されど」なのだと思ってしまう。

ジオラマ食堂 ~鉄道SL倶楽部デゴイチ

[文: miya 動画: fuku]

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