激変する世界に向けて1200年生き延びてきたKYOTOから生き延びる智慧とヒントを発信

以下、京都についての川柳もどきものを幾つか。

笑えれば相当に京都通。
蛇足ながら何故おかしいか解説をします。
京都特有のことを取り上げることが多いからです。

では、笑って笑って。

懐石とは元々禅宗の温石(おんじゃく)のことだそうだ。寒い時に石を火で加熱して懐に入れる暖房具で、いわばほかほかカイロのようなもの。それが料理に結び付いたのには、いろいろ説があって、修業中の禅僧が寒さや空腹をしのぐために、温めた石を懐にいれたことから、客人をもてなしたいが食べるものがなく、せめてもの空腹しのぎにと温めた石を渡し、客の懐に入れてもらったと言う説や、老子の『老子道徳経』にある「被褐懐玉」の玉を石に置き換えたとする説もある。「被褐懐玉」とは「ひかつかいぎょく」で、うわべは粗末だが、内には優れた徳を備えているたとえだそうだが、懐石料理、見かけはとにかく、体にいいものを備えているのでは。『京都症候群』のマクガバンレポートなどどうぞ。

とは言え、京言葉は実に難しい。このお客様を歓迎する言葉だけでも、いろいろ言われる。一般的には「おこしやす」は、心まちにしていたなじみのお客様で、「おいでやす」は初めてお越しのお客様だとされる。それで川柳的に表現したのだが、それでは済まない京言葉。両者の歓迎の言葉にほんのすこし温度差があるというのだ。またそれによって京都人ならではの暗黙の了解があると言う。「おこしやす」と言われれば、少しゆっくりめにくつろがせていただき、「おいでやす」と言われれば、あまり長居をせずに御暇するというのだ。「おいでやす」は直接的表現を好まないし、しない京都人が、やんわりと今日は都合が悪いので、適当にお帰り下さい、という意味らしいが、これは温度差なしで使うことの多い昨今、どちらで迎えられても、それが店舗なら気にすることはない。客なのだから。

さらには、「おこしやす」は「山を越えてきた遠方からのお客」に使われていた言葉で、それが大事なお客という意味で常連さんに使われるようになったとか、この使い分けは、店の奥にいる料理人や仲居さんに常連客かどうかを伝えるサインだとか、京言葉もここまでくれば、ややこしくて、伝達さえ難しく・・・・

「京の三条室町は、聞いて極楽居てみて地獄、お粥隠しの長暖簾」と京の囃子歌に揶揄されたように、戦前の京の商家の食事は質素で、朝はお粥に一汁と沢庵、昼は野菜煮、夜は魚の干し物など。その貧しい食事を隠すための長暖簾と言われたが、『京都症候群』にあるように、世界で最も理想的な食事は、日本の元禄以前とか。その食事を維持してきた商家の食事こそ、いまこそ胸を張るべきで、朝食はしっかり食べると言う悪しき常識もおいおい見直されて・・・・

サッカーは言うまでもなく、ゴールキーパー以外は、手や腕でボールを故意に扱った場合は反則となる。さらに、足の甲はリフティング以外ではあまり使わない。しかし、日本の伝統スポーツ蹴鞠は、甲でリフティングして、相手に受け取りやすく打ち返しやすい配球をする、リフティングとアシストの上手さを競う勝敗のない至って平和な球技で、血を見ることなど絶対にない。FIFA も蹴鞠を採用すれば世界ももう少し平和になるかも。

日本人の粗末な小さい家のことを「うさぎ小屋」と言ったのは、ECヨーロッパ共同体が1979年に出した内部資料「対日経済戦略報告書」中の訳語だと言われ、それが誤訳によるとかよらないとか言われるが、一般庶民の住宅は決して広くはない。しかし、京都の家は間口が狭く「うなぎの寝床」と呼ばれる。それは、江戸時代初期に三間の間口を一軒役として税金が課せられるようになったためこのような形状になったというがこれは俗説だそうだ。高密化した市街地においては類似した建築は世界中にみられる。必然的に道に面する戸数が多くなるよう建物が建ち並ぶからである。とは言え、豊臣秀吉の都市改造政策も忘れてはならない。平安京の正方形区画から、南北に長い短冊形に変えられ、正方形の奥まった中心部の空き空間も有効に活用できるようになる。しかし、豊臣秀吉は、「地口銭(じぐちせん)」と称される、家の間口の広さに応じて課税をしたことで、間口は狭くして、奥行きのある「鰻の寝床」様式の町家を建てて節税をしたといわれることもある。多くの町家が、間口2間、約3.8メートルで、奥行きが10間から12間あったと言う。奥行きが18メートルから22メートルになるから、ちょっと小太りのうなぎの寝床だった。

魚と居酒屋と演歌がちょっと年齢がかさんでくると嫌いでなくなる。とは言え、この意味がわかる人は、やがて高齢者かな。いずみたく作曲、永六輔作詞、デュークエイセス歌で1966年大ヒット。京都が大好きな永六輔さんにしか書けない歌詞。

京都 大原 三千院
恋に疲れた 女が一人
結城に塩瀬の 素描の帯が
池の水面に 揺れていた
京都 大原 三千院
恋に疲れた 女が一人

『女ひとり』作詞:永六輔

京都は第二次世界大戦で、市内全域を空爆で破壊されるようなことはなかった。むしろ市内に戦火が及んだのは、幕末から明治にかけての「鳥羽伏見の戦い」に代表される戦いで、京都に大きな災害をもたらしたのは、「応仁の乱」で、室町時代に11年間も続いた。1467年勃発とされるから、およそ600年近く前だが、祇園祭の中断をはじめ、京都に様々な影響を与えた。それだから「先の大戦」と言われると、被害の少なかった第二次世界大戦より「応仁の乱」か。ついでにこの前の戦争は「鳥羽伏見の戦い」だそうだ。

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戻橋は、一条戻橋、上京区の堀川に794年に架けられた橋で、数々の伝承がある。「戻橋」という名前の由来については、延喜18年(918年)12月、漢学者・三善清行の葬列がこの橋を通った際、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた子・浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返り、再会できたところからついたと言う。

これは『撰集抄』だが、『平家物語』にも、渡辺綱の話がある。綱が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美女が夜も更けて恐ろしいので送ってほしいと頼まれた。怪しいと思いながらも馬に乗せた。すると女はたちまち鬼になり、綱の髪をつかんで愛宕山へ飛んだ。綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げた。切った腕は綱の屋敷に置かれていたが、義母に化けた鬼が取り戻したとされる。

「戻橋」という名前から、嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は嫁が実家に戻って来てはいけないと、この橋に近づかないという習慣がある。逆に、第二次世界大戦で出兵する兵士とその家族は、無事に戻ってくるようにと願ってこの橋に渡りに来ていたそうだ。

全く言うまでもない。・・・颯爽と、蒼天(そうてん)翔(か)ける日輪(にちりん)の・・・おお!確かにこちらの颪は燃える。愛宕颪を足しても引いても颪では負けそう。

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[文: miya]

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