激変する世界に向けて1200年生き延びてきたKYOTOから生き延びる智慧とヒントを発信

 今回、写真は一切ない。

 撮影を許可されなかったこともあるが、写真で切り取ることが芸術の可能性であれば、写真で切り取れない音楽のような世界もある。今回は、どうも音楽は写真では写せませんよ、そう料理人が言ったように聞こえた。そして、私たち客はオーケストラをコントロールする指揮者によって、極上の音楽を鑑賞したような気分でもあった。

 音楽と言う比喩を使ったにも関わらず、掘りごたつ式のカウンターに座れば、音はむしろ無いと言える。しかも、音のない死んだような空間でなく、雑音がない静寂(しじま)とでも言えるように、気持ちのいい空間が肌から染みこんでくるようにも思える。

 しかし、指揮者が音創りだとすれば、ここの料理人はその気持ちの良い静けさすら創っているように思える。昭和初期の建物をそのまま使っていると言う風情ある空間をしっとりと静けさの器にしている。室内は日本建築の好きな人にはまさに垂涎もの。畳の美は言うまでもなく、天井は煤竹、戸は薄板の網代で統一され、廊下を挟んで雪見障子を通して見える庭が懐かしく歪んでもいる。手作業で作った硝子の趣は、それだけでも部屋の味わいを作っている。

 なぜ指揮者と言うか、その証拠は庭にもある。この料理人、飯田真一さんという人のこだわりは尋常ではない。庭の行燈には、蝋燭が揺らめいて、まさに大きな「エフ分のいちゆらぎ」で癒されて、いつまでも目を奪われる。

 そのいかなる隅にも油断のない気配りと全体を総合芸術と化す技は、「マエストロ」と敬称で呼びたくもなる。三〇代半ばと聞くが、「若いのに」と褒めるより憎い気さえする。

 ゆったりと静けさに馴染んで行くと、これまた「若いのに」和服の似合う女将さんがカウンターの向こうに立ち、「ようこそ」と静けさを破らない、ちょうどいい音量と音程でご挨拶を頂く。料理人がマエストロならば、女将はコンサートマスターなのか、笑顔で演奏を盛り上げていく。

 食前酒だと言って出された錫の猪口より大きめのぐいのみは、なんと料理人のデザインとか。つい唸ってしまう。「金木犀のお酒です」という案内に、錫器の中を覗いてもう一度唸った。銀色と黄色がいかにも美しい。日本の食文化は色彩でもある、そう言っているように美しい。

 和食には冷酒と決めているが、さほど飲めない我々が全部飲みたいほどの貴重な銘柄が並んでいる。もはやこだわりを越えて、見事。
 「お好きな物をどうぞ」とお盆の上に出された幾つかの盃は明らかにバカラ。
バカラで驚いていては、食事が進まない。料理人の器へのこだわりは、こだわりの演奏の中でも彫琢を極めている。中国明の時代のもの、江戸末期の永楽一一代目保全(ほぜん)作のもの、九谷初代須田青華作のもの、その須田に学んだ北大路魯山人作のものと続く。

 しかし、美術館ではない。惜しげもなく使っている。女将さんが「洗う時に、本当に神経を使います」とおっしゃるように、ここの料理人のとんでもない姿勢がある。道具は正しく用いてこそ、とは言いながら、道具の域を遥かに超えて、美術品を使いこなすのである。それはある種勝負であろう。器に負けてはならないし、かと言って勝負だけでなく、器は料理を生かし、料理は器の良さを伝えないといけないので、ちょっとひと昔風に言えば、「弁証法的に」価値を上げねばならない。味が負ければ、器だけが目につき、肝心の部分で不協和音にさえなってします。

 冒険はどうか、勝負は、あるいは「弁証法的に」統一されているか、など箸をセンサーにするように運ぶ。ずらりと料理だけを紹介する。もちろん一言で片付く。「うまい」と。しかし、本当は言葉が消える。ごちゃごちゃ言うな、この部屋の静けさに浸れ、そう指揮者は言うように言葉を奪ってしまう。我々は顔を見合わせてうなづくだけだった。

まず牡蠣の素揚げに吉野おろしに水菜。そして松茸、榎、舞茸、三つ葉の
茸椀、造りは明石の鯛に紀州の槍烏賊と、秋に酔いしれる。猛暑より激暑と言われて紅葉前に焼けてしまった紅葉の京で、一気に冬が来て、秋はそそくさと消えてしまいそうだが、ここでたっぷり秋を味わわせてもらえる。

 遠路からわざわざ一泊して食べに来ていると言う男女の質問に料理人は微笑みながら答えていた。
「一日中、考えているのです、そしたらひょいと浮かんでくるのです」と、たぶん次の料理の時に答えていたと思う。工芸や芸術など「もの創り」でそれなりの成果を上げる人は、誰もが一日中、ずっと「それ」について考えていると思う。そのひょいと浮かんできたのかどうか、のどぐろのお寿司に実山椒の醤油煮がのっている。のどぐろのリッチな味を実山椒の醤油煮で和音をなして見事。

 こだわりにこだわり、それは神経質なほどのこだわりで、固苦しくて息が詰まりそうかと言えば、食前酒の色から始まって、その美味にその種の緊張は解かれてはいる。とは言え、その神経質とも言えるこだわりのど真ん中で、料理人は聞き捨てならない「名言」を吐いた。

 「ここは祇園という中心から言えば郊外です。祇園の外やから遊びを」と言うのだ。エ、ど真ん中のお料理で遊べる、もう一度言おう、「若いのに」ただ者ではない。

 確かに遊びである。説明に笑ってしまい、食べ方に戸惑い、舌が驚いて、胃が地球の大きさに広がった。埼玉が誇る彩の国黒豚の角煮をこだわりで探し回った食パンで包み、タスマニア産のマスタードをのせ、ポン酢で食べる。名付けて「豚パン」。

 音程をはずしてまで楽しまそうとしてくれた指揮者は、一気にオーソドックスな演奏からフィナーレにまで高める。鰆の幽庵焼き。子持ち鮎の有馬煮に翡翠銀杏が添えられ、柿、キユウリ、人参の細切りの胡麻和えで、晩秋。煮物は七年間修業された金沢の加賀野菜のひとつ源助大根と海老芋に青菜が添えられていた。短円筒型で肉質が柔らかく大根らしい歯触りで煮崩れしない煮物用大根だという説明通りの美味しさ。

 ご飯は、松茸ご飯や栗ご飯の季節に敢えて焚き込みご飯にしなかったという。佐久のお米だそうだが、なるほど白米が輝いて実に味わい深い。なめこの赤だしに山芋、奈良漬、青菜の香のもので、エンディング。栗キントンも手製で、出された抹茶は不調法な我々が気を使わないために、茶器でないものという気の使いよう。

 その気遣いは、指揮者がオーケストラの団員の全ての演奏者の音を聞き逃さないことが当たり前で、しかもいかにも自然でないと息苦しい。その気遣いを目と耳と舌と喉、そして時にお箸に伝わる感触を含めて味わわせてくれはしても、その絶品の味に収斂されて、わざとらしくない。料理人の気遣いがいかにも自然であり、身に付いたものであることに気付いたのは、我々の前から椀を下げる時である。お盆に無造作にのせても構わないものだろうが、彼は、お盆の真ん中に丁度いい間隔を置いて、計ったようにそっと並べて厨房に帰った。食べ終わった後の道具は、美味しく味わった客の思いを引きずっている。無造作に扱われると、せっかくの料理が台無しになる。彼は、自分の料理をひきたててくれたであろう器を愛おしく抱くように扱っていた。最後にもう一回、「若いのに」できる。

 料理人と女将に送られて外に出た。舌に残る余韻だけでなく、演奏に全身が震えながら共鳴したように、どこかで静かに燃えている気がして、少し冷たくなった霜月初旬の夜の風さえ心地よかった。

[文: moon]

飯田 (いいだ)
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このBlogは『moon』いう集合名詞のスタッフが、勝手に食事にお邪魔し、写真の許可だけを貰ってご馳走を頂戴し、これは掲載すべき美味であると感じたものだけ、食後に料理人などに少々のインタビューを試みて構成しています。各食品の感想を語ることを極力控えるのは、味は舌を媒体として個人個人が感じる以上、言葉では「美味しい」という表現が最高と思われますし、それ以上の表現はなかなか難しく、また自分自身で感じてもらいたいし、また個人個人の趣味もあります。ですから、なるべく写真で紹介して、全体としてのイメージを伝えることを主とします。但し、一切の責任は当ホームページの主催者にあり、賛同、苦情などはコメント又はメールにてお願いします。

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