●病を封ずる
楓(かえで)の葉の緑が重なり合う木下闇(このしたやみ)の中、蝉(せみ)時雨がしきりの東山山麓(さんろく)の鹿ケ谷の地。法然を開祖とする浄土宗の住蓮山安楽寺で毎年7月25日、南瓜(かぼちゃ)供養が行われています。
江戸時代、真空益髄上人が、夏土用に南瓜を供養すれば万人が病から救われるという夢告を受けたことに由来し、中風封じの行事として庶民が参詣(さんけい)して南瓜を食したり、持ち帰ったりしています。
この供養に用いられるのが鹿ケ谷一帯の特産野菜だった瓢箪(ひょうたん)形の鹿ケ谷南瓜なのです。かつて京都で南瓜といえばこの南瓜のことでした。
けれど、京都に『生命(いのち)の水』を注ぐ琵琶湖疏水が明治23(1890)年に完成し、同45年に今は哲学の道と呼称される第二疏水が通じるに及んで「疏水工事後水利を得て畑地の大分を水田に変じ大(おおい)に其(そ)の栽培を減少し」と地誌は記し、やがて宅地化の波が押し寄せ、栽培地は移ろい、やがて鹿ケ谷南瓜は姿を消してしまいました。瓢箪形のくびれの上部は甘みが少なく、味も落ちるので、菊座形の南瓜にその座を譲らざるを得なかったのです。
●美しさと哀調と
安楽寺の庫裏に続く廊下にズラリとさまざまな顔つきをした鹿ケ谷南瓜が行列をしていました(写真上)。「どつしりと尻を据えたる南瓜かな」とは夏目漱石のの句。
黄色い花が受粉すると、ごく幼い時からもう明確な瓢箪の形をとっています(写真下)。収穫時は緑色がまさっていますが、やがて橙(だいだい)色を帯び、秋ともなれば縮緬(ちりめん)状の多くの小さなこぶが独特の精彩を放ち、白い粉をふき、全体が鈍色の光沢さえ帯びてきます。その形状とも相まって美しい野菜となり、食べるよりは鑑賞用として飾る人が少なくありません。
法然の唱えた専修念仏は人々の心をとらえ、後鳥羽上皇の女官だった松虫・鈴虫の2人がひそかに法然の弟子の住蓮・安楽のもとで出家しましたが、上皇の怒りに触れ、住蓮・安楽は斬罪に処せられました。
安楽寺境内には松虫・鈴虫の五輪塔が苔(こけ)むし、4人の像に鹿ケ谷南瓜が供えられています。参詣した人はしばしその哀話をしのんで箸(はし)をとります。
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[文・写真:菊池昌治]
【菊池昌治の著作】
『京都染織模様 (日本図書館協会選定図書) 』
『京都転転』
『京都 味の風土記 』
『万葉散策』
『京都文学巡礼―作家の眼で見た古都像』
『京都ひと模様』
『京洛往還記』