激変する世界に向けて1200年生き延びてきたKYOTOから生き延びる智慧とヒントを発信

●千本通以西は田圃
 現在の京都の都市的景観からは想像もできないような市中の風景が明治の末ごろまで広がっていました。

 歌人の長塚節(たかし)は明治41(1908)年春、京都を訪れ、廓(くるわ)の島原に遊んで「千本通といはれた田圃(たんぼ)をずんずん辿(たど)る。(中略)菜の花は断続して其(その)平地の限りにぼんやりと見える。(中略)遥(はる)か先には花の上に甍(いらか)が聳(そび)えて見える。それが壬生寺であろう」と壬生の辺を描き、その4年後、初めて京都を訪れた若き谷崎潤一郎は「千本通りも四条辺から全くの片側町であり、西はげんげと菜の花の咲き乱れた野がずっと太秦から嵯峨の方までつゞいてゐた」と京都初の郊外電車として明治43(1910)年に開通した四条大宮から嵐山へ向かう京福電車からの風景を書き残しています。

 「丹波口出れば菜の花一面に咲きゐし頃になすよしもがな」とは吉井勇の歌。

●水菜の一変種
 壬生一帯は伝統野菜の壬生菜の特産地でした。菜の花も壬生菜も、そして水菜も同じアブラナ科ですから黄色い十字形の花が咲きます(写真上)。長塚や谷崎は菜の花としていますが、その中には壬生菜もあったでしょう。

 江戸末期に刊行された『守貞漫稿』は「水菜或ハ壬生菜、又ハ糸菜ト云フ」と記しています。自然交雑で水菜の一変種として生まれたのが壬生菜でした。細長い卵形のヘラ状の葉と独特の香りを持つ壬生菜(写真下)と水菜の呼称はまだ未分明でした。

 先年、壬生菜の栽培農家を訪れた時、居合わせた種苗店の人の「水菜の種の注文を受ける時は必ず丸葉(壬生菜)か切れ葉(水菜)かを確かめます」との弁。

●歯触りと香り
 大正期になると壬生一帯は宅地化が進んでゆきました。昭和8(1933)年、北大路魯山人は「壬生菜は壬生が名産で外では出来なかったが、今は住宅となって場違いになりかけている」と述べています。壬生菜は南の吉祥院、上鳥羽と産地は移動してゆきました。京都府の資料には昭和10(1935)年の項に「壬生で壬生菜の栽培消滅」の一行がありました。

 今は各地で栽培され、千枚漬に添えられるなど、その緑の色合いと歯切れの良さ、芥子(けし)の香りが賞味されています。

[文・写真:菊池昌治]

【菊池昌治の著作】

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