●いかつい姿
ずんぐりとして、白さよりはかすかに土色を帯び、横に皺(しわ)をきざんだような肌を持ったその大根は、愛想がないというか、武骨さを漂わせてその肉質のしまりをうかがわせました。桃山大根(写真上)です。
そんな姿に男性的な山容を持つ滋賀は伊吹山の麓(ふもと)で育っていた伊吹大根から作出されたということが想起されました。一茶の「野大根引きすてられもせざりけり」の野大根の野性味あふれる姿とダブりました。
伏見の深草一帯、明治から大正にかけて桃山大根の一大産地を形成し、一望見わたす限り大根畑が広がっていたといいます。
日清戦争(1894~95 年)後に陸軍の第38 連隊が深草村(現・伏見区深草)に移駐、さらに日露戦争(1904~05 年)後には第16 師団が新設・移駐、農村だった深草一帯35 万坪(116平方キロメートル)には軍の施設が建
設されて軍隊の町となりました。
桃山大根は軍隊の日常の食事の漬物としての需要があり、さらに伏見は酒造業が盛んで30 近い醸造元が酒蔵を櫛比(しっぴ)させており、そこで働く人々の食生活を支える野菜として、明治末期には約50ha で栽培されていました。
●人糞との交換野菜
敗戦で軍隊は去り、産業構造も変容してゆき、食生活の変化は食卓から糠味噌(ぬかみそ)くささを奪い、おのずと桃山大根の栽培は激減してゆきました。
前回の茎大根同様、桃山大根は肥料としての人糞(じんぷん)との交換野菜であり、商家へ運び込まれ、農家の人がその場で樽(たる)に漬け込むのが習わしでした。
其角の「かはかうや竹田(現・伏見区)へ帰る雪の暮」の初句は厠換、あるいは厠買うで「かは」は糞尿のこと。雪の暮れ方に響いた声。
大正初期の烏丸通を描写した文に「農家がひいてくるのは牛の車で二輪だった。肥桶(こえおけ)をのせているのがおおかった……車道にはいつもその排泄(はいせつ)物が見られた」(松田道雄『花洛』)とあります。
桃山大根は1週間ほど風干しをした後に糠に漬け込みます(写真下)。夏土用を越してもその味が変わらないのが特長で、今、地元農家の手で復活しつつあるようです。
止
[文・写真:菊池昌治]
【菊池昌治の著作】
『京都染織模様 (日本図書館協会選定図書) 』
『京都転転』
『京都 味の風土記 』
『万葉散策』
『京都文学巡礼―作家の眼で見た古都像』
『京都ひと模様』
『京洛往還記』