激変する世界に向けて1200年生き延びてきたKYOTOから生き延びる智慧とヒントを発信

 ●季節の中の麦
 4月の風に青い麦の穂が揺れています。近づくと穂から針より細く鋭い芒(のぎ)がきっぱりと、まっすぐに空を刺していました(写真上)。

 透明感があって、激しい姿でした。室生犀星は「なにものをか示さむとしつつ/はげしく匂(にお)ふ麦/麦は空よりさかさまに/みどりの棘(とげ)を立てそめぬ」とうたっています。荻原井泉水の「仏を信ず麦の穂の青きを信ず」の吟もそんな青麦の姿。

 そんな青麦の強さを育てたのは冬の麦踏みなのでした。凍(い)てつく寒気の中、芽を出した麦を一株一株丹念に踏みつけてゆきます。茎葉の徒長を抑え、根の分けつと深化、凍霜害への抵抗力など、麦の実りを促す不可欠な農作業なのです。

 米が貴重だった時代には麦は日々の糧でした。稲の裏作として栽培された麦をはじめとする穀物が庶民の主食そのものでした。高度成長期に入ろうとした時代、時の総理大臣は「貧乏人は麦を食え」と言い放ちました。

 ●京の麦・大和の麦
 京都でも麦の穂波が揺れていました。若山牧水は「清涼寺の築地くづれし裏門を出れば嵯峨は麦うちしきる」と歌っています。

 また、明治半ばから洛西の桂の地ではビール麦の栽培が広がってゆきました。桂大橋のたもとにある茶店が売る餡(あん)をはさんで編笠形にたたみ、きな粉を振りかけた餅は麦代(むぎて)餅と呼ばれています。麦刈りやその後の田植え時の肉体労働の疲れを癒やす腹持ちのよい餅として、餅2個に収穫した麦5合を代価として支払ったのです。

 小津安二郎が監督した映画「麦秋」のラストシーンは、老夫婦が見守る中、麦の穂が実って風に揺れる風景の中を花嫁行列が行きます。大和の耳成山近くの麦畑がロケ地でした。豊穣(ほうじょう)の麦に仮託した小津の思いは何だったのでしょう。

 黄金色に実った「麦秋」は初夏の季語です。「熟れ麦はほろびのひかり夕日また」は石原舟月の句。焦土と化した応仁の乱後の京に入った連歌師の宗長が見た都は、5月、麦畑の中に内裏が浮かんでいたそうです。「夕ひばり上がるを見ても落つる涙は」の二条落首が想起されます。

 西賀茂の幼稚園の菜園で黄金の麦が輝き、園児が駆け回っていました(写真下)。芭蕉の句に「つかみ合ふ子供のたけや麦畑」があります。ちなみに麦の花言葉は「富」、折れた麦は「争い」です。

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[文・写真:菊池昌治]

【菊池昌治の著作】

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