激変する世界に向けて1200年生き延びてきたKYOTOから生き延びる智慧とヒントを発信

●漂う愛嬌
 引き抜かれた小ぶりな大根の姿を見た時、思わず笑みがこぼれてしまいました。

 青首大根のように先端に向かって細長くなっているのではなく、先端がぷっくりと膨れ気味でとても愛嬌(あいきょう)を漂わせていたからです(写真上)。

 その白首丸尻大根という品種名を聞いた時も、何というほほえましい名前なのだろうと、気持ちが穏やかになってゆきました。

 お盆の五山の送り火の「妙」「法」をともす山の麓(ふもと)の松ヶ崎の地にその大根畑はありました。宅地化が進み(写真下)、今ではもう種の保存のために細々と作られていました。

●松ヶ崎で
 白首丸尻大根は壬生に近い中堂寺地区で多く栽培され、中堂寺大根と呼ばれていました。市街化が進むと栽培地は南禅寺や南の七条、西の西京極、さらには北の鷹ヶ峰へと移る中、生産量は減少の一途をたどって行きました。

 気候や土壌が適して松ヶ崎で栽培されるようにはなりましたが、洛中へ野菜を売りに出る振り売りが盛んになると少量多品種の野菜の生産が必要条件となり、おのずとその栽培面積は限られてゆきました。

 けれどこの大根は茎大根とも呼ばれ、漬物用の大根として質素倹約を専一とする京都人の食生活を支えた野菜でした。かつて京都では農作物の肥料としての人糞(じんぷん)を農家の人が引き取り、その交換野菜として重宝されてい
ました。

 今は死語となった丁稚(でっち)奉公ですが、京の商家に住み込みで年季奉公する少年たちや伝統産業である友禅染や西陣織の担い手として各地から京都に来た育ち盛りの若い働き手が、たくあん漬でご飯をかき込む姿が京の昔なが
らの構えの町家と重なります。商家の『始末』は見方を変えれば「食封じ」という側面併せ持っていました。

 栽培していた農家の人は茎大根の将来については諦(あきら)め顔でしたが、思い直したように「この大根はな、茎や葉もやわらこうて一緒に漬け込むんや。ええ風味やで」とつけ加えました。その間引き菜はとても軟らかくてよい香りがするので「ねえさん、おくもじ(茎大根)持って来てや」と歓迎されたそうですが、それも、もう今は昔のこと。

 けれど、先日、錦市場の漬物店で糠漬(ぬかづけ)を見かけました。

[文・写真:菊池昌治]

【菊池昌治の著作】

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