●流浪の果てに
洛東の地、鴨川の扇状地としての聖護院はその地名を冠する大根や胡瓜(きゅうり)など京都の伝統野菜の発祥の地です。
蕪(かぶら)もその一つですが、都市化と病気の発生でその栽培地は洛西の衣笠、等持院、洛北の紫竹、玄琢、昭和に入ると桂へと転々とし、さらに西、ついに老ノ坂峠を越えて口丹波の亀岡の地へと『流浪』してゆきました。
初冬、長くほの暗い老ノ坂峠を越すと眼下は乳白色の濃い霧に包まれていることがしばしばです。
この白い霧の深さが蕪の生育をゆるやかなものにし、肌つやのよい、きめのこまかい肉質に育てるのでした(写真上)。「お(置)く霜が一味つけし蕪かな」は一茶の吟。
霧は蕪だけではなく、歴史群像に『反骨の志』を醸成したのでした。「この地形と京都の人煙(じんえん)の間には、いつも一重の山霞(さんか)を引いて、世に不満な人間共が反骨を養うには恰好(かっこう)の地の利であるところにちがいない」と記したのは吉川英治です。亀岡の篠八幡宮で討幕の兵を挙げた足利尊氏、水色桔梗(ききょう)の旗を掲げて老ノ坂を下り、桂川畔で「敵は本能寺にあり」とした亀山(亀岡)城主だった明智光秀らが歴史を刻んできま
した。
●霧に育てられて
亀岡の篠地区が聖護院蕪の特産地となっています。
やわらかな緑の葉をつかんでヒョイと引っ張り上げると何の雑作もなく引き抜かれ、先端の根はまるで豚の尻尾(しっぽ)のように短くかわいいもので「手のちからそゆる根はなしかぶらかな」という千代女の句そのままです。
畝に無造作にゴロリ、ゴロリと並べて横たえられた蕪は流れ作業のように根を落とされ、葉もまた何の躊躇(ちゅうちょ)もなくザクリと切り捨てられてゆきます(写真下)。うち捨てられた葉は緑を失い、しなびて地に還ります。
●京都振り
丸々とした蕪は洗われて真っ白になり、洛中の漬物店に納められて、ごく薄く『千枚』に削られて、昆布をぜいたくに使って漬け込まれて千枚漬となります。
幕末に考え出されたという千枚漬のほかに、聖護院蕪はもう一つの京都らしい冬の味わいを生み出します。底冷えを忘れさせる蕪蒸しです。二つながら、いわば京都の都振りを映し出しています。
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[文・写真:菊池昌治]
【菊池昌治の著作】
『京都染織模様 (日本図書館協会選定図書) 』
『京都転転』
『京都 味の風土記 』
『万葉散策』
『京都文学巡礼―作家の眼で見た古都像』
『京都ひと模様』
『京洛往還記』