●完熟トマト登場
今、一世を風靡(ふうび)した観のある、形や大きさがそろい、糖度や酸味のバランスのとれた完熟トマトの桃太郎が登場したのは昭和58(1983)年のこと。
そうなると天邪鬼(あまのじゃく)なのか、形はいびつで大小も不ぞろい、完熟の度合いもまちまちな、けれどどこか日なたのにおいがするような昔のトマトを懐かしむ気持ちがわいてきます。そんな昔のトマトは独特の癖のある味で砂糖か塩をつけて食べるのが常でした。
永井荷風は文化勲章を受けた前後は1日1食の外食で、ある時期、正午には必ず浅草のレストランのアリゾナに座し、まずゆっくりトマト1個に塩をかけて食べ、ビールを飲み、あとは肉料理一皿で一日の食事は終わりだったそうです。
●今や日常野菜
トマト(写真上)はナス科の一年草で、原産地は南米のアンデス地方。新大陸を征服し、アステカ文明を滅ぼしたコルテスらスペイン人がヨーロッパへもたらしました。
日本への渡来は江戸初期のことで、寛文8(1668)年、狩野探幽の描いた『草花写生図巻』にはまるで南瓜(かぼちゃ)のように縦に深く凹凸があります。食用ではなく、その色や形を観賞したのです。そのいかつさは杉田久女の「処女(おとめ)の頬(ほお)のにほふが如(ごと)し熟れトマト」の吟の風情とはまったく別のもの。
明治に入って9品種が導入され、「蕃茄(アカナス)」の名で栽培されましたがその独特なにおいや色で普及しませんでした。
岩手県の花巻で農学校の教師となって農業改革を志した宮澤賢治は、菜食を主とし、当時としては新しい西洋野菜だったトマトを好み、羅須地人協会を訪れた人を焼きトマトでもてなしたそうですが、もの珍しさだけで終わったようです。
花は黄色で五裂して、細くとがった花びらは少し反ります(写真下)。
トマトが日常的に食されるようになったのは敗戦後、食の洋風化が進んでからでした。穏やかな酸味が受け入れられ、サラダとして生食はもちろん、調味料としては塩味を丸くし、肉や魚の臭み、脂肪のしつこさを消し、さらに肉や魚が含むイノシン酸などと結びついて、うまみを倍加させます。
食材としてトマトが欠かせないイタリアでのポモ・ドーロの名は黄金のリンゴ、フランスではポム・ダムール、愛のリンゴと呼ばれています。
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[文・写真:菊池昌治]
【菊池昌治の著作】
『京都染織模様 (日本図書館協会選定図書) 』
『京都転転』
『京都 味の風土記 』
『万葉散策』
『京都文学巡礼―作家の眼で見た古都像』
『京都ひと模様』
『京洛往還記』